僕らのアパートの部屋の鍵

彼女はこのアパートの鍵を持っていない。
僕が部屋にいないと外でうろうろと時間をつぶし、僕が帰ってくるまで家に入らずに待っているのだ。
僕が部屋にいるときはぽんぽんと、ガス屋でもなく電気屋でもない彼女だけが出せるノックで僕に帰宅を知らせる。大抵彼女の片足を重そうに引きずる足音で気がつき、僕の方が早くドアにつくことが多いのだが、彼女のそのぽんぽんという金属の扉なのにちょっと柔らかく響くその音を耳にしたくて、扉の前で彼女のノックを待つ。
どうして鍵を持たないのか、一緒に生活を始めた当初に聞いてみたが「あなたが持っているから大丈夫じゃない」というだけで、とどのつまりは、鍵を持ち歩くことは面倒くさく、どうせ失くしてしまうからなのだということを、この4年で学んだ。
実際、僕と生活する前のアパートの鍵は何度も無くし、最後にはマスターキーしか残らなくなったので、もう鍵をかけずに外出してらしい。
彼女のアパートに会いに行くと、彼女が部屋にいるときは、頑丈な鍵が二つと、ドアチェーンがしっかりかけられている。僕は彼女の部屋にノックをすると、そこでじっと3分ほど待たなくてはいけないのだ。その間に彼女はドアを開ける準備をする。3分の間に一体何が行われているのか不思議だったが、服を着ているのだ、と言うことは4年もかからず一緒に生活を始めた3日ほどでわかった。極度に散らかっているときもあれば、清潔でチリひとつ無いときもある。食べたままのカップラーメンの容器がテーブルに置いたままの時もあった。そんなときに彼女は悪びれもせず「時間が無かったのよ」とだけ言う。あまりにさらりと、「ちょっとトイレ」と言うのと同じ口調で言うものだから、僕は本当に時間が無かったのだなと納得した。
彼女が部屋にいないときは、鍵開いてるから入って待ってて、と言う言葉どおり彼女の帰宅を部屋で待つことになる。その時だって、彼女が居るときと部屋の様子はなにも変わらない。片付けられているときと、そうでないときの確立は五分五分といった具合で、彼女の帰宅は5分程のときもあれば、明け方まで待たされることもあった。
初めて朝まで彼女の部屋で一人で過ごしたとき、僕は一睡もすることができなかった。もちろんネクタイは締めたままだし、床に座った足の横にカバンをおいたままの状態だった。
静かに1時間が経過したくらいで、足がしびれて胡坐になったが、何度も体勢を変えるだけで、横に寝転がったり、彼女がいつも腰掛けている部屋にたった一つだけの椅子にも移動することは無かった。やがて日付を越えたあたりで、この部屋の僕だけ時間が動いていて、部屋の外は時間が止まっているのではないかと、急にリアリティーも無い不安に襲われた。
そこで初めてテレビのスイッチを入れ、大量の音が部屋いっぱいになり、少し安堵した。時間は外でも流れている。
次第に僕は彼女が心配になる。携帯電話を鳴らしてみることはすでに実験済みだ。この部屋の中なら着信の振動の音が聞こえた。彼女は携帯を持って外出していない。
何か連絡を取る方法は無いかと思い巡らすうちに、彼女は帰宅した。
どうしたんだ、何かあったのか、大丈夫なのか、と矢継ぎ早に追い立てる。
ごめんなさい、抜けられなかったのよ。そういって彼女は僕用の大き目のTシャツとパンツそれにズボンを手渡すと、自分もさっさと服を脱ぎ、僕なんか部屋に居ようが居まいが関係ないという様子でショーツだけになったかとおもうとさっとシャツに首を通してベットに入ってしまった。一般的な男性なら僕と同じように彼女を凝視してしまうだろう。それでもこの部屋何もそんなわざわざ見る必要なんて無いじゃないという彼女のポリシーとも思える独特の法があるようで、一般的な男性の僕の当たり前の行動はどこか的外れになってしまう。僕はもたもたとネクタイを取って着替えを始める。半年もこの部屋で誰とも口を利かずにただ座っていたような気分だった。