天気予報

彼女は天気予報が嫌いだ。
一緒にテレビのニュース番組を見ていて、番組が天気予報を始めると彼女はそわそわし始める。
彼女の元にリモコンがあれば1から順に番号をまわされることになるし、僕の元にリモコンがあれば変えてくれと訴える。
僕がそのままにすると今度はイライラし始め、テレビまで這って行って画面のすぐ下にあるチャンネルを変えるボタンを押す。
彼女は天気予報を「耐えられない」といい、かたくなにその情報を享受することを拒む。
「天気予報を見る位ならコマーシャルを観たほうがいい」そうで、彼女は長く告げられる天気予報が苦痛でならないらしい。
「どうせそんなもの当たらない」から「そんな不確定な情報は必要ない」これが彼女の見解だ。
対して僕は、天気予報はニュース番組の中で一番好きなニュースである。
天気予報で強盗は起こらないし、殺人もない、収賄で天気が変わるようなこともない。
正直で平和で、明日や今週の予定をのんびりと考える。
どのタイミングで溜まった洗濯物を片つけて、続いてシーツを洗ったらいいか見当をつける。
天気予報は僕の穏やかな午後や、明日の朝や、来週の水曜日の平和を約束してくれる気がする。
僕はそこにはっきりと、僕の生活を感じ取ることができる。
そして彼女は天気予報を目の敵のように嫌う。
高校の選択で彼女は物理と科学をとり、僕は地学と生物を選択した。
彼女は天気図の見方を知らず、天気の流れをわかろうとせず、お天気おねえさんのやわらかい微笑みも理解しない。
朝の放送ならまだ許せるのか、彼女の頭が働いていないだけなのか、黙ってチャンネルを変えることなくみている。しかし夜の放送に関しては敏感にそれを察知し、かたくなにチャンネルを変えるように訴える。
彼女にとって明日の天気予報は、全く持って必要のない知らせなのだ。
彼女は今を生きるので精一杯で、明日のことなんか何にも考えていないんじゃないかという気になってしまう。
動物を追ったドキュメンタリーで、動物にとって明日というのは永遠に遠い未来と音声が言っていたが、彼女にとって天気予報は考えることもできない明日を無理やりにこじ開ける、異物でしかないのかもしれない。
彼女は結果で生きている。
季節の流れを予想することなく、肌で感じる。
その日道を歩いていて受け取った変化を、そのまま正直に受け止める。
暑いと思ったら一枚着る物を減らすし、寒いと思ったら一枚多く服をきる。
桜の開花も自分の目で確かめて、散ってゆくのも通勤の途中で確かめる。
アパートにゴキブリを見つければ、それは彼女にとって夏の始まりだし、扇風機をダンボールから引っ張り出す。
天気予報なんか見なくても、季節の変わり目をしっかり捉えていることを僕は見ている。
僕は天気予報を見て暑くなりそうな日はそれに備えた格好をしていくし、雨が降りそうなら傘を持って家をでる。
不機嫌になる彼女を隣に感じながら、僕はこつこつ天気予報を見る。
「どうせそんなもの当たらないじゃない」
彼女はそういって僕を少し馬鹿にする。
でも僕はそんなことはどうでもいい。彼女に馬鹿にされたって、僕は僕の来週の穏やかな生活をしっかりと想像して今日の終わりをのんびりすごすのだ。
たとえ僕が天気予報を見続けて、彼女がイライラしたとしても、また次のニュースが始まれば彼女はそっちに夢中になって、イライラなんかすぐに忘れてしまうのだから。