交換っこ

彼女はタバコを吸う。
僕が彼女と付き合うより先に吸い始め、彼女は僕と付き合うようになってからタバコを吸い始めた。
最初は、頭が縮む感じがするとか、手足がしびれる、とか文句ばっかり言っていたのに、いつの間にか習慣になって、僕よりたくさん吸うようになった。
彼女は酒を飲まない。
彼女は僕と付き合うより先に外で飲む習慣を持っていた。僕は彼女と付き合うようになって、外で飲むことの楽しさを覚えた。
最初は、知り合いになるのが面倒だとか、一人で飲みに行くのは恥ずかしい、とか思っていたのだが、彼女に連れられて、小さなお店をたくさん教わって、いつの間にか習慣になった。

僕はタバコをやめた。
1週間ほど帰省する都合があり、実家では吸えないので、我慢していたら、タバコを吸う習慣がなくなってしまった。積極的に意識してやめたというより、どうでもよくなったので、吸わなくなった、そういったほうが適切かもしれない。彼女は家で仕事をするようになって、タバコの量が増えた。まるで僕の分まで吸っているみたいに、吸うようになった。

彼女は飲みにいかなくなった。
職場をやめて、家で仕事するようになってから通勤が無くなり、飲み屋に寄って帰ってくるという習慣が無くなった。積極的に飲みにいくのをやめたというより、仕事で人と合わなくなって、前ほどのストレスも無くなって、飲みにいってリラックスする必要も無くなった、といった方が適切かもしれない。彼女はもともとアルコールに強いわけでもないし、わざわざ飲みにいくのも面倒だから、飲みにいかない。ただそれだけのこと。アルコールが好きで飲みに行っていたわけではないから、彼女は家でも酒を飲まない。逆に僕は、一人で飲みにいく回数が増えた。仕事帰りにぷらっと寄る、飲み屋のいごごちの良さを覚えたのだ。まるで彼女の分まで飲んでいるみたいに、僕は酒を飲むようになった。

彼女が、僕の分までタバコを吸い、僕が、彼女の分まで酒を飲む。
釣り合いが取れているというか、交換しただけ。
僕と彼女の交換っこの話。

天気予報

彼女は天気予報が嫌いだ。
一緒にテレビのニュース番組を見ていて、番組が天気予報を始めると彼女はそわそわし始める。
彼女の元にリモコンがあれば1から順に番号をまわされることになるし、僕の元にリモコンがあれば変えてくれと訴える。
僕がそのままにすると今度はイライラし始め、テレビまで這って行って画面のすぐ下にあるチャンネルを変えるボタンを押す。
彼女は天気予報を「耐えられない」といい、かたくなにその情報を享受することを拒む。
「天気予報を見る位ならコマーシャルを観たほうがいい」そうで、彼女は長く告げられる天気予報が苦痛でならないらしい。
「どうせそんなもの当たらない」から「そんな不確定な情報は必要ない」これが彼女の見解だ。
対して僕は、天気予報はニュース番組の中で一番好きなニュースである。
天気予報で強盗は起こらないし、殺人もない、収賄で天気が変わるようなこともない。
正直で平和で、明日や今週の予定をのんびりと考える。
どのタイミングで溜まった洗濯物を片つけて、続いてシーツを洗ったらいいか見当をつける。
天気予報は僕の穏やかな午後や、明日の朝や、来週の水曜日の平和を約束してくれる気がする。
僕はそこにはっきりと、僕の生活を感じ取ることができる。
そして彼女は天気予報を目の敵のように嫌う。
高校の選択で彼女は物理と科学をとり、僕は地学と生物を選択した。
彼女は天気図の見方を知らず、天気の流れをわかろうとせず、お天気おねえさんのやわらかい微笑みも理解しない。
朝の放送ならまだ許せるのか、彼女の頭が働いていないだけなのか、黙ってチャンネルを変えることなくみている。しかし夜の放送に関しては敏感にそれを察知し、かたくなにチャンネルを変えるように訴える。
彼女にとって明日の天気予報は、全く持って必要のない知らせなのだ。
彼女は今を生きるので精一杯で、明日のことなんか何にも考えていないんじゃないかという気になってしまう。
動物を追ったドキュメンタリーで、動物にとって明日というのは永遠に遠い未来と音声が言っていたが、彼女にとって天気予報は考えることもできない明日を無理やりにこじ開ける、異物でしかないのかもしれない。
彼女は結果で生きている。
季節の流れを予想することなく、肌で感じる。
その日道を歩いていて受け取った変化を、そのまま正直に受け止める。
暑いと思ったら一枚着る物を減らすし、寒いと思ったら一枚多く服をきる。
桜の開花も自分の目で確かめて、散ってゆくのも通勤の途中で確かめる。
アパートにゴキブリを見つければ、それは彼女にとって夏の始まりだし、扇風機をダンボールから引っ張り出す。
天気予報なんか見なくても、季節の変わり目をしっかり捉えていることを僕は見ている。
僕は天気予報を見て暑くなりそうな日はそれに備えた格好をしていくし、雨が降りそうなら傘を持って家をでる。
不機嫌になる彼女を隣に感じながら、僕はこつこつ天気予報を見る。
「どうせそんなもの当たらないじゃない」
彼女はそういって僕を少し馬鹿にする。
でも僕はそんなことはどうでもいい。彼女に馬鹿にされたって、僕は僕の来週の穏やかな生活をしっかりと想像して今日の終わりをのんびりすごすのだ。
たとえ僕が天気予報を見続けて、彼女がイライラしたとしても、また次のニュースが始まれば彼女はそっちに夢中になって、イライラなんかすぐに忘れてしまうのだから。

仕事をやめた

彼女が突然仕事をやめた。
なんの前触れもなく、何の相談もなく、ただ「仕事をやめた」と彼女は言った。
ここのところの喫煙量の多さや、あれほどよく寝る彼女が僕よりも遅く寝て早く起きているから、何かおかしいとは感じていた。
彼女が辞めたといえば、もう辞めたのだ。
僕がとやかく言えることではない。
僕は本来この立場であれば、彼女の失業を悲しむべきであるはずなのだが、内心嬉しかったというのが正直なところ。
彼女にもそのことは当然ばれていて「何嬉しそうにしてるのよ」としっかり言われてしまった。
その日僕たちはセックスをした。珍しく彼女の方からそれを求め、僕を抱きしめたのだ。
いつもより親密な前戯のあと、彼女はいつものように顔をシーツで隠してセックスをした。
それは突然にやってきた。
突然声のトーンが変わり、彼女から今までに聞いたことのない静かで、低い嗚咽が漏れる。
最初それがなんなのか僕にはわからなかったが、僕が無理やりに彼女からシーツを奪うと、はっきりわかった。
彼女は泣いていたのだ。
シーツを失った彼女は、セックスの最中絶対に開くことのなかった目をしっかり開いて僕の顔に向け、僕の顔をパーツ一つ一つを確認するかのようにゆっくりなでたあと、僕から離れ、浮き上がらせた頭をベットに戻し腕で顔を隠した。
僕はこの先どういう風にこのセックスを着地したらいいものか、迷ったが、彼女が何も言わなかったのでそのまま続けることにした。
静かで低い嗚咽は、いったん止まったあとまた短く起こり。また止まる。
それを2、3度繰り返したあと、彼女の口から小さく「もういや」と漏れた。
僕はそこでセックスを中断し、静かに彼女から引き抜いた。
「違うの、いいの」とあわてて繰り返す彼女を、彼女の横に添い寝をするように体を横に倒し、やわらかく腕の中に収めると、今度は彼女は激しく泣いた。
僕の胸に顔を押し付けて、僕からは顔が見えないようにして泣いた。
低い嗚咽は半オクターブくらい高くなり、彼女の肩は小さな振動を繰り返す。
それは5分だったか10分だったか、思っていたよりもずっと早く終わり、彼女はすっと体を起こして僕から離れた。
「息ができない」もう普通の声に戻った彼女がそう言って、セックスの後片付けに使用されるはずだったティッシュで勢いよく鼻をかんだ。
その仕草には、さっきまでのような線の細い弱さは微塵もなく、いつもの彼女の強気な態度に戻っている。
ベットから放り投げたティッシュが、落下したフローリングの床に水分の重さを知らせる音を出す。
「射精しなかったの? もったいない」
彼女はクールにそういうと、僕から離れて背を向けて横になり、布団をかぶってそのまま寝た。
僕は彼女の他人に付け入るすきを与えない強固な姿勢がかわいいと思う。
線の細い、弱いままでいれば女としてのかわいさを僕に見せることができるのに、それをさっさと捨てて強気に振舞う彼女の彼女らしさが好きだと思う。

三年ネタロウ

彼女はいつまでもボーっとしている。
どれだけの時間、暇であってもお構い無しでボーっとしている。
本を読んでいるかと思えば、寝ていたり、寝ているなぁと気を抜いていても、もそもそと起きてきて、パソコンに電源をつけたりする。
でもほとんどは何もしないでボーっとしている。
ボーっとしているときの彼女に何を言っても仕方がない。
うんうんと返事はするのだが、しばらくして、今なんていったの?と聞かれたりする。
コレはまだましなほうで、僕が何かを話しかけたことを認識しているけれども、ひどいときは「そんなことは聞いていない」「そんなことはいっていない」とちょっと前の発言を平気で撤回するので、困ったものだ。
今日も彼女はお昼前に起きてきて、一日ボーっとしていた。
たまにトイレに立ち上がりはするものの、寝ているのか何か考え事をしているのか、僕の聞いているラジオを聴いているのか、僕には全くわからない。
こうなったらトイレに立ち上がる以外ほとんど動きはないのだ。
今日彼女は一食も食事をしていないはずである。
飲み物も取っていない。
それなのにトイレにはもう5回も行った。
体のどこにそんな水分が隠されているのか、僕には見当もつかない。
明日か早ければ今夜、体の中の水分が足りなくなって、頭が痛い頭が痛いと彼女はきっと繰り返す。
僕はそれに備えて、体に吸収されやすいであろうスポーツ飲料を買いに出かける。
彼女と一緒に部屋に居ると、外とはまったく別の時間軸で過ごしている気になってしまう。
窓から漏れる明かりで、朝が来たことも、夕方になってまた夜になることも、わかってはいるのだけど、自分たちは絵永遠にそこにとどまっているという気になるのだ。
朝が来るのは外の世界のことでこの部屋には全く関係がないことなのよ、
夕方になって夜になっても私たちにはとってはなんの意味のないことなの。
彼女の存在がそういう気分にさせるのだ。
僕は休日にしかはけないスニーカーを履き、アパートのたったひとつのドアを開ける。
ドアは重く誰かに外から押されている錯覚をもつ。
少しばかり開いた隙間から西日が入り込む。
光にも水圧のようなものがあるのかもしれない。僕は思い切ってドアを押し開け、部屋の中に西日を受け入れる。
逃げ場を失った水が、新しいスペースを見つけたように遠慮なく光が差し込む。
ドアから振り返って改めて光を見るが、それは最初にドアを開けたときほどの強い印象はなかった。
流れ込んで一体化してしまえばなんてことはない。
買い物を済ませ部屋に戻ると、彼女は僕が部屋を出るときと全く同じ格好をしていたが、日曜日の夕方に必ず放送されるアニメを見ていた。
表情は相変わらずボーっとしたままだが、彼女にも、もう日曜日が終わってしまうことがわかっているのだ。
日曜日が終わってしまえば、また先週と同じように朝起きて仕事をして夜帰宅して、風呂に入ってまた寝る、そして日曜日が来ることを待ちわびるのだ。
空気が少しずつ暖かなくなって、雨の日が増える。ただそれだけのこと。

37度と5度の世界

彼女は体温が低い。
体温計で計ると大抵35度台後半で、風邪をひくとやっと36度になる。
僕は体温が高い。
大抵37度前半をたたき出すので、風邪をひけばもちろん38度を簡単にこえる。
彼女は寒がりで、僕は熱がり。
体温差を考えれば当然のことだ。
夏、エアコンをつけるかつけないかで食い違い、春こたつをしまうかしまわないかで争いになる。
彼女はほとんど汗をかかない。
部屋の中にじっとしていれば、真夏でも汗をかくことはない。
対して僕は冬以外のほとんどのあいだ汗を掻き続けている。
真冬でも少し厚着をしたり、少し体を動かせば汗はつき物のようについてくる。
彼女は厚着しても、厚めの布団をかけていてもそれでも尚寒いままである。
彼女が先に入っていた布団に僕が入れば、布団そのままの冷たさに毎度驚くことになる。
彼女が先に布団に入っていても僕にとっては冷たいまま、彼女には発熱するという機能がついていないのだ。
僕にとって人に発熱コマンドは標準装備だと思っていたのに、彼女には全くその機能がない。
寒い日、いくら厚着をしても温かくなってきた、という感覚は彼女にはない。
それ以上下がらないというだけで、空気やお湯や、温かいそれ自体が熱を持つものに触れて、その熱を奪うことでやっと彼女は温かいを手に入れることになる。
彼女にとって、常に発熱し続ける僕という存在は格好の獲物で、夏以外の季節彼女の足は僕に押し付けられ続けることになる。
汗ばむことのない彼女の足は、常に冷たく乾燥している。
かさかさとした彼女の足に、人の肌と触れ合っているという密着した感覚はない。
彼女は特に足の甲のひえがつらいといって、僕の体のありとあらゆる曲線に足の甲を合わせる。
彼女の足はいつも必ず左右一緒に重なっていて、ひとつづつ存在するということはない、
毎晩ベットの中で、彼女は僕から熱を得る。
僕は彼女に熱を与える。
彼女が必要としていようといまいと、僕は際限なく一定の熱を放出し続ける。
一人であれば行き所のない熱が彼女に吸収されて彼女に保温されて、彼女の血を運ぶのを手伝い彼女が呼吸するのを手伝う。

右と左

彼女は右と左がわからない。
後ろを向いたら逆なるような不確定なものはいらない、というのが彼女の言い分だ。
彼女は地図も東西南北で確認する。
僕の助手席の乗っていても、地図をくるくると回転させて、目的の方角に進んでいればいい、そういう感じだ。
彼女は大体の世界で生きているし、彼女が彼女の生活送るには、右と左という概念は必要ないのかもしれない。
それでも彼女もこの世の中で生活して、他人と関わるにはやはり右と左という概念が必要なのだ。
彼女が僕たちのデートで先に歩くようになってすぐ、僕に指輪を買ってほしいといった。
彼女に物をねだられるのは初めてのことだったし、アクセサリーの類を全くつけない彼女にそういうものをほしいといわれるのは、少し以外でまた嬉しくもあったので、僕は彼女のその希望を受け入れることにした。
その頃にはもう彼女は新宿とか渋谷とか、大きくて人の多い街には出たがらなくなっていて、でも買い物をするとなると、大きな駅でなければいけない。彼女が選んだのは上野だった。
僕たちは公園に面した一番わかりやすいJRの出口で待ち合わせると、その日の行動を開始した。
桜の咲いていた季節だったし、僕としてはこのまま公園でも散歩して、何か必ずやっている展示会にでも入ってのんびり過ごしたかったのだが、彼女が早足で進んでしまうので仕方ない。約束もあるし、僕はいつものように黙って彼女のあとに続く。
彼女はまず駅前のデパートに入った。
デパートの一階に必ずある宝飾品売り場を早足で一周した。
すでに目的のものが決まっていて、ただそれを探してる、そんな作業だ。
彼女は定員に話しかける暇さえも与えない。
一周したあと売り場案内の表示のまで、そのビルに他に該当しそうな売り場がないかか確認をして、あればそこに向かうという行動を繰り替えした。
駅前のデパートを回り終えると、御徒町まで往復した。
それでも彼女の目的とする物は見つからなかったらしい。
しょうがないか、彼女はそうつぶやくと、一番最初に入ったデパートの最上階に向かった。これまでに観た宝飾品売り場の一番落ち着いた高級そうな場所だった。
ガラスで囲まれたその売り場に、入ってしまうのはなんとなくいけないような気がして最初に向かったとき、僕は通路から売り場へも入らなかった場所だ。
エレベーターを降りると彼女は迷わずショーケースに向かった。
あれだけ多くの商品をあの早さで見て、よく見つけられたものだ。
僕も億劫だが、一度深く息を吸い込んで覚悟したあと、彼女のあとに続いた。
大丈夫いざとなればクレジットカードだって持っている。
彼女はガラスのショーケースの前で商品を確認すると顔を上げた。
ショーケースの中の一番年齢が上とわかる女性に目をあわせるだけでその女性を呼んだ。
店員の女性は、手にしていた書類を置いて、僕たちの前に来ると、穏やかな微笑を浮かべた。
彼女が短く「コレ」と指差すと、女性はコーデュロイのふたのない入れ物に指輪を出した。
指輪は今日見た中で一番細く、石もついていなければ飾りもついておらず何かのブランドというわけでもなかった。中央に緩やかなカーブがわかるかわからないか程度にした控えめなデザインだけだ。
10号ありますか?彼女はそういうとその指輪を手に取り右手の薬指にはめた。
申し訳ございません、奇数号でしかご用意してないのですが、こちらが11号になります。
店員の女性がそういうと、彼女はそれを指にはめたまま僕に本日二度目のコレといった。
値札を確認することもない。
僕がコレお願いします、と伝言ゲームのように店員の女性に伝えているうちに、もう彼女はコーデュロイのケースに指輪を戻すと、さっさと後ろを向き、向かいの時計売り場に消えてしまった。
店員の女性は変わらず穏やかに今度はお金を入れるトレーにレシートを入れて僕に差し出しす。僕はそこで初めて金額を確認したのだが、それは僕の予定した金額よりずっと少ないものだった。
僕は財布の中の現金で、支払いを済まし、ほっとしてラッピングを待つ。
ラッピングを終えた品物を店員の女性は僕に渡すと、また穏やかな微笑で僕に深く頭を下げた。僕は僕にしては大きな金額を使ったのにもかかわらず、ちょっといい気持ちになり、店員の女性と彼女の買い物に好感を持った。
僕はこのように穏やかに買い物をしたことがない。店員の際限なく喋り続けるセールストークにうんざりしながらも、なんとなくその気になって、そこにいくまでほしいとも思わなかったような物をいつの間にか買っている、僕の買い物は大抵そういう具合だ。
その日の目的を無事に終えた僕たちは、僕の希望で上野公園へと向かった。
目的の終えた彼女はそれまでの早足とは違う、ぼんやりと何を見るわけでもなく上のほうを見ながら僕のあとにゆっくり歩く。
夜も近い夕暮れの桜並木を通り抜け、噴水の近くの落ち着いたベンチに腰掛けると、僕は彼女に包みを渡した。
彼女はさっきしたばかりのラッピングをあけると、試着したのと同じ右手の指にその指輪をはめ、ありがとうと言った。
それから彼女は、左右を指輪を触って確認してから行動に移る。
彼女はそうやって、右と左の概念を手に入れたのだ。

僕は駅に居た。
バスの時間を待つために。
40分。
駅の前の花の植木鉢に、若い男が勢いよく吐瀉していた。
口から滝のように吐くというより、引力に負けて落ちるみたいに。
嫌な気持ちがこみ上げてくるが、仕方ない。今日は金曜日だ。
僕は手にしていた本をアルコールでも摂取しながら、読み終えてしまおうと、駅の前にひとつだけあるショットバーに寄ろうと思った。
地下にあるその店は、看板が変わっていた。
2ヶ月前に彼女に教えてもらったその場所は、そのとき看板は黒で、押し付けるものが何もなかったのに、今日は赤と緑と黄色のバックに、アフロヘアの男の影が書かれたものに変わっていた。
階段を降りようと、ビルの中に足を入れたら、地下から大きな女の人の笑い声が聞こえた。
鼻の詰まったような、のどにたんが絡んだような、口の中がこもっている人が発する不快な声だった。
僕はそのまま駅に帰ろうと思った。
駅の中の飲食店でコーヒーでも飲みながらすごしたらいいと予定を変えた。
駅のコンコースでまた水の落ちる音がした。
僕の上司のようなスーツにトレンチコートを着た男が、塗装されたコンコースの脇に小さく設けられた植え込みのスペースに入って、小便をしていた。
女性のも彼のすぐそばを通る。
彼女たちは立小便をする彼を目にも入れに様子で、変わらない早い歩調で通り過ぎていく。
僕は珍しく疲れていた。
酒も飲んでいないのに、僕は吐き気がして、今日会った彼らと同じように植え込みに向かう。
2,3回嗚咽を繰り返すが、吐くことはできない。
僕の胃の中には彼らのような消化される以前の食物さえないのだ。
僕はおとなしくバス停に向かってそのまま30分、そこにたっていた。
ストリートミュージシャンエレキギターと、アンプを通したマイクで歩みを止めないと叫んでいた。
ストリートミュージシャンなのに、アンプを使うということに違和感を覚えた。
その電源はどこから引いているのだろう。発電機の耳障りな音もしない。
電池式でこんなに長時間コレほど大きな音が出せるものなのだろうか。
バスに乗って、降りたあと、彼女の真似をして遠回りをしてコンビニエンスストアに寄りミートソーススパゲッティーを購入した。
もちろんパルメザンチーズは電子レンジのドアに貼り付けたままだ。
アパートのドアをノックするのも面倒で、僕はガチャガチャと取っ手を回した。
パタパタと彼女が走ってくる音がして、ドアが開いた。
テーブルにはもう食事の用意ができていた。
彼女は僕の手にしたビニール袋には目もくれずに、そのまま台所で味噌汁の入ったなべに火をつけて、茶碗にご飯をよそっていた。
僕は舌を鳴らして彼女を呼ぶ。
僕は彼女の名前を呼ぶのが恥ずかしくて、飼っていた猫を呼ぶように舌を鳴らして彼女を呼ぶのだ。
彼女は台所から玄関に顔を出す。
ビニール袋を彼女に渡すと中身を見て彼女は笑った。
スーツを着てカバンさえ持ったままの僕を見て、そのまま強く抱きしめてくれた。
なべががたがたと音を立てる。
それでも彼女は何も言わずに僕に体重を預けている。
しばらくそうしていたが、僕の方がなべの音が気になって彼女を体から離すと、ガスを止めた。
彼女は台所のガス台の前でもう一度僕に強く腕を回すと、「ご飯にしよう」といって僕の頭をくしゃくしゃといじった。