右と左

彼女は右と左がわからない。
後ろを向いたら逆なるような不確定なものはいらない、というのが彼女の言い分だ。
彼女は地図も東西南北で確認する。
僕の助手席の乗っていても、地図をくるくると回転させて、目的の方角に進んでいればいい、そういう感じだ。
彼女は大体の世界で生きているし、彼女が彼女の生活送るには、右と左という概念は必要ないのかもしれない。
それでも彼女もこの世の中で生活して、他人と関わるにはやはり右と左という概念が必要なのだ。
彼女が僕たちのデートで先に歩くようになってすぐ、僕に指輪を買ってほしいといった。
彼女に物をねだられるのは初めてのことだったし、アクセサリーの類を全くつけない彼女にそういうものをほしいといわれるのは、少し以外でまた嬉しくもあったので、僕は彼女のその希望を受け入れることにした。
その頃にはもう彼女は新宿とか渋谷とか、大きくて人の多い街には出たがらなくなっていて、でも買い物をするとなると、大きな駅でなければいけない。彼女が選んだのは上野だった。
僕たちは公園に面した一番わかりやすいJRの出口で待ち合わせると、その日の行動を開始した。
桜の咲いていた季節だったし、僕としてはこのまま公園でも散歩して、何か必ずやっている展示会にでも入ってのんびり過ごしたかったのだが、彼女が早足で進んでしまうので仕方ない。約束もあるし、僕はいつものように黙って彼女のあとに続く。
彼女はまず駅前のデパートに入った。
デパートの一階に必ずある宝飾品売り場を早足で一周した。
すでに目的のものが決まっていて、ただそれを探してる、そんな作業だ。
彼女は定員に話しかける暇さえも与えない。
一周したあと売り場案内の表示のまで、そのビルに他に該当しそうな売り場がないかか確認をして、あればそこに向かうという行動を繰り替えした。
駅前のデパートを回り終えると、御徒町まで往復した。
それでも彼女の目的とする物は見つからなかったらしい。
しょうがないか、彼女はそうつぶやくと、一番最初に入ったデパートの最上階に向かった。これまでに観た宝飾品売り場の一番落ち着いた高級そうな場所だった。
ガラスで囲まれたその売り場に、入ってしまうのはなんとなくいけないような気がして最初に向かったとき、僕は通路から売り場へも入らなかった場所だ。
エレベーターを降りると彼女は迷わずショーケースに向かった。
あれだけ多くの商品をあの早さで見て、よく見つけられたものだ。
僕も億劫だが、一度深く息を吸い込んで覚悟したあと、彼女のあとに続いた。
大丈夫いざとなればクレジットカードだって持っている。
彼女はガラスのショーケースの前で商品を確認すると顔を上げた。
ショーケースの中の一番年齢が上とわかる女性に目をあわせるだけでその女性を呼んだ。
店員の女性は、手にしていた書類を置いて、僕たちの前に来ると、穏やかな微笑を浮かべた。
彼女が短く「コレ」と指差すと、女性はコーデュロイのふたのない入れ物に指輪を出した。
指輪は今日見た中で一番細く、石もついていなければ飾りもついておらず何かのブランドというわけでもなかった。中央に緩やかなカーブがわかるかわからないか程度にした控えめなデザインだけだ。
10号ありますか?彼女はそういうとその指輪を手に取り右手の薬指にはめた。
申し訳ございません、奇数号でしかご用意してないのですが、こちらが11号になります。
店員の女性がそういうと、彼女はそれを指にはめたまま僕に本日二度目のコレといった。
値札を確認することもない。
僕がコレお願いします、と伝言ゲームのように店員の女性に伝えているうちに、もう彼女はコーデュロイのケースに指輪を戻すと、さっさと後ろを向き、向かいの時計売り場に消えてしまった。
店員の女性は変わらず穏やかに今度はお金を入れるトレーにレシートを入れて僕に差し出しす。僕はそこで初めて金額を確認したのだが、それは僕の予定した金額よりずっと少ないものだった。
僕は財布の中の現金で、支払いを済まし、ほっとしてラッピングを待つ。
ラッピングを終えた品物を店員の女性は僕に渡すと、また穏やかな微笑で僕に深く頭を下げた。僕は僕にしては大きな金額を使ったのにもかかわらず、ちょっといい気持ちになり、店員の女性と彼女の買い物に好感を持った。
僕はこのように穏やかに買い物をしたことがない。店員の際限なく喋り続けるセールストークにうんざりしながらも、なんとなくその気になって、そこにいくまでほしいとも思わなかったような物をいつの間にか買っている、僕の買い物は大抵そういう具合だ。
その日の目的を無事に終えた僕たちは、僕の希望で上野公園へと向かった。
目的の終えた彼女はそれまでの早足とは違う、ぼんやりと何を見るわけでもなく上のほうを見ながら僕のあとにゆっくり歩く。
夜も近い夕暮れの桜並木を通り抜け、噴水の近くの落ち着いたベンチに腰掛けると、僕は彼女に包みを渡した。
彼女はさっきしたばかりのラッピングをあけると、試着したのと同じ右手の指にその指輪をはめ、ありがとうと言った。
それから彼女は、左右を指輪を触って確認してから行動に移る。
彼女はそうやって、右と左の概念を手に入れたのだ。